久しぶりにブログを書いています。
個人的には、日々生きていて
「やりたいことはやればいいし
やりたくないことはやらなきゃいいだけ」
とめちゃくちゃシンプルに考えているのですが
どうも世の中には意外と
「やってみたいやつあるんだけどバエないから恥ずかしくてできない…」と感じてしまう人も多いようです。
ということでこのあたりについて個人的な見解を書き綴っていました。
※眠れなくて朝5時に書いてます!
インスタ映えにかぎらず
タイトルでは分かりやすく「バエる」という言葉を使ったけど
別にバエだけに限らずもっと広い意味で
「意識高い感じ」「丁寧な暮らし」「格好つけること」などなど
「見栄をはること全般」
ぐらいの意味でバエるっていう単語をこの記事では使っていきます。
「やってて自分が幸せなことをやる」
我々が生きている人生のセンターピン、最優先事項はあくまでも『幸福度』なので
やってて「おもれー!」と感じられることがあればやって
やってて「個人的には面白くないな…」と感じることや
そもそもやりたくないことはやらなければいい。
めちゃくちゃシンプルな話。
(※もちろんもうちょっと話を複雑にすると
「やりたくないけど義務でやらなきゃいけない」とか
「やりたくはないけど長い目で見て持続可能にするためにはこれもやっといた方がいい」
とかもあるけど
話が複雑になるので今回は割愛。
「やりたいことをやればいいし、やりたくないことはやらなければいい。(当たり前)それが人生」
というシンプルな形で考えます。)
「やってみたい!」と思ったものがバエるか、バエないか
我々は生きてて「これやってみたいなあ」と思うことが日々湧いてきます。
で、「やってみたいな」と思ったものが
バエるものの場合と
バエないものの場合とがあります。
「やってみたいな」と思うものでバエるものの場合は
やることに特に抵抗もないだろうし、やればいい。(当然)
問題は
「やってみたいと思うけど、これバエないんだよなー」
となったときで
「バエないから恥ずかしくてできない」という人が思ったより多いらしいです。
「自分がやりたいと思ったんだからやればええやん」
というのが今回の記事の内容です。
「やりたいなと思ったことだけどバエないから恥ずかしくて出来ない」
というのは他人の人生を生きすぎじゃないかなと個人的には思う。
あくまでもそれぞれの人生のセンターピンは「幸福度を高めること」で
やってて「おもれー!」と感じることはやればいいのに、という。
何よりも一番優先すべき自分の気持ちよりかも
「他人から見られてどうか?」を気にしてしまうのは
〝一度きりの人生〟なのに、承認欲求にあまりにも振り回されすぎて
本当に取るべき選択が取れなくなっているんじゃないかなと自分は考えます。
「やってみたいな」と思ったことがたまたまバエることだったら、そのままやればいい。
「これってバエそうだから気になる!」というのがきっかけで興味を持って、
「やってみたい!」と感じたこともやってみればいい。
別にやりたくなくてバエないことはやらなくていい。
(そもそもやりたくないんだから当たり前)
「やってみたいなあ」と思ったことでバエないものがあった時は
他人の目を気にしてやらないのはもったいない。
「バエるけど、自分の好みではないんだよなあ…」
ということはやんなくていい。
(例えば自分の場合だと「ポーカーってかっこいいよね」とは思うけど、
やっててマジで全く熱中できなくて退屈だからやらないです。
やりたい人がやればいいと思う!)
「これやってて楽しい」
「これ食べて美味しい」
という瞬間を積み重ねていけばいいのだから
やりたいことやればいいし、食べて美味しいと感じるものを食べればいい。
食べてみて「うまっ!」って感じる料理があるのに
「この料理はダサいから食べられない」
というのは他人の目線に振り回されすぎで、
何より大事なはずの自分の感情の扱いがそんなに軽くていいんか?という感想になります。
というかそもそも「バエないイベントをやったり、
バエない料理を食べたりすると自分の価値が落ちるからイヤだ」
みたいな話あるけど
バエないイベントに参加したり(例えばカードゲームのオフ会に行くとか?)
バエない料理を食べたり(すき家食べるとか?)しただけで
「人としての価値が低い!」って言われるほどの大きな影響はないと思う。
ちょっとトガらせて言うと
バエないイベントに参加したり、バエない食べ物を食べたりしたこと、
〝たかがそれごとき〟で自分の価値が下がってしまうと感じてしまうのなら
そもそもの根本の自分の価値がブレブレで、
肩書きとか、いいところを切り取ったブランディング?とかに頼り過ぎで
肝心な「自分」っていう本体の価値がめちゃくちゃモロいんじゃないの?
何か見えない敵と戦って怯えすぎじゃないの?
見栄はった虚勢とか肩書とかいろんなものを必死に塗り固めて鎧にして、モロい自分本体を隠しているようなものじゃないの?
と思ってしまいます。
(※個人の価値観です)
補足たち
①かっこつけることで幸福度が上がる問題
もちろん承認欲求というのは人間が生まれながら持っている欲求の一つで
誰にでもあるわけで
「見栄を張ることで承認欲求が満たされて、それで幸福度が高まる」というのもあるとは思う。
ただ、バランスの問題です。
「承認欲求をゼロにしよう!」という話じゃない。
この世の物事は0か100で区別できるものってほとんどなくて
ほとんどのものは7とか30とか60とかグラデーションでできている。
見栄を張ること・承認欲求満たすことも、これもバランスで
ゼロにする必要はないけど、ただそれに振り回されすぎて「自分がやってみたいなと思うこと」も恥ずかしくて出来なくなるほどなら
他人の目線に振り回された人生になるんじゃないかなと。
他の誰でもない自分の人生なのに、
他人の目線が優先されてしまうなんて本末転倒だなと感じてしまいます。
「なるほど!あえてダサいことをやるのが逆にかっこいいのか!」←そうじゃない
逆張りで「あえてダサいことをやればそれが一周まわってかっこいいんだ!」という
そういう意味じゃなくて、
そもそもの話のスタートは「自分がやりたいかどうか」で、
やりたくないことはそもそもやらなくて良くて(当たり前。)
なんだけれども「やってみたいな~と思ったけどバエないこと」は気にせず別にやればいいじゃんという話です。
補足:わがままに生きよう!ということではない
「自分がやりたいと思ったことをやればいい」けど、
別に「わがままに生きればいい!」ということではないです。
人に迷惑をかけないのは前提。
というか「自分がやりたいことをやる」のと
「人に迷惑をかけないこと」ってどっちかしかとれないわけじゃなくて
両立できるのだから普通に両立すればいい。
最近
「わがままで傍若無人で人に平気で「死ね!」とか言ったりする」のが
「人に振り回されなくて自分の芯があってかっこいい!カリスマ!」
みたいな扱いを受けてるのを目にするけど、
これは絶対違うだろって個人的には思います。
(※イヤなことされたときは「死ね!」って言ってもいいかも。
けど理不尽にただワガママを押し通すのがカリスマはぜったい違う笑)
まとめ
ということで個人的に思っていることを書いてみました。
同じようなこと感じる人がいたらDMで教えてくれると嬉しいです!
あと「面白そうだからこういうのやってみたい」という誘いも待ってます。やろう。