今回は「人がついてくる」と「人を従わせられる」の違いについて書いてみようかなと思います。
「周りに人がたくさんいる状態」って
パッと見は同じに見えても、実は集団によって実情は180度違うということがあるので
そのあたり書いていこうかなと思います。
人を従わせられる・人がついてくるについて

まず「人を従わせられる」と「人がついてくる」の差についてですね。
(「人がついてくる」は正確には別にここに上下関係的意味合いはなくてもいいので「人が周りにいる」のほうが合ってるかもしれません。)
「人を従わせる」のはすごく簡単で
①インセンティブを用意し
②そのインセンティブが引きつける力を超えない範囲で要求すればOK
なだけです。
これさえできれば人格も人望も人徳も関係なく好き放題実行できます。
ここでどれだけ大きいインセンティブがあるかによって、相手に飲ませることができる要求の大小も変わってきて、大きなインセンティブを用意できる場合は相手にとって本当はマジでやりたくないことでも渋々従わせることができます。例えば『出世、将来的に増える給与』という「それを失うわけにはいかない…!」というあまりにも大きなインセンティブを用意することができれば「転勤」というめっちゃ嫌がることでもやらせることができます。
これは会社→人への命令ですが人→人でも同じです。
「これだけお金を渡せるから」「これだけの人脈を繋げられるから」という相手にとってのインセンティブを用意することさえできればそのインセンティブの引き付ける力を超えない範囲であれば相手は言うことを聞きます。
ただ、これって『条件付き』だからその条件がなかったらその人と関わることはないわけですね。
別に人として好かれているわけでもないし、条件付きだからその条件がなくなったら別にその人そのものには元々興味がないわけだから離れていく関係にすぎません。
一方、「人がついてくる(人が周りにいたがる)」ほうは「この人のこと好きやわあ」「カッコイイ人格やわあ…」という純粋な気持ちにより成り立ちます。そして「なにか明確なインセンティブを用意さえすればOK」という単純な話でもないのでこっちのほうがよっぽど難しいです。
一番カンタンな判別方法
一つわかりやすいのが「この人は自分の葬式に来て悲しんでくれるだろうか」という指標です。
もちろん毎日毎日人と関わるたびいつも裏で「この人って自分の葬式に来て悲しんでくれるのかな…」とか考えているのはなんかキモいのでそれも問題ありだと思いますが
とはいえ極端すぎる考え方だからこそ基準としてはすごくわかりやすいです。
いつもいつも「この人は自分の葬式に来て悲しんでくれるだろうか」なんてことを考える必要はもちろんありませんが、
今まで「人を従わせる」と「人がついてくる」の違いについて全く考えたことない人とかは
1回この極端すぎるけど、というか極端すぎるからこそわかりやすい指標で考えてみると今回の内容がとらえやすくなると思います。
誰かの周りに人がたくさんいても
本当にいい関係で囲まれている場合と、
子分をぞろぞろ引き連れているものの実際には全員条件付きで一緒にいるだけで内心好かれていない…しかしトップに立っている本人だけ気づいてない、という裸の王様状態になっている場合もあります。
人との共存志向とバトルふっかけたがり志向
個人的には共存は良い方向性だと思いますが、
逆に「勝つか負けるか」みたいな基準で考えて人とバトルしまくることって
自分が勝てる勝負だった場合だとしても別に勝つことにもそんな意味ないなって思います。
もちろん勝てば人を従わせたり、ぐうの音も出ない状態にしたりすることはできます。
しかし、これってあくまで相手を黙らせることができただけで、別にこの世界に自分の仲間が1人増えたわけではないんですよね。
むしろまた条件が変わればすぐさま敵として復活するであろうことを考えると、味方どころか潜在的に相変わらず敵のままであるということです。
歴史の中でも暴君の王様がいろいろ家来たちに言うことを聞かせることはできていたけど、内心全然好かれていないどころか「さっさとくたばらねえかな」と思われていて、
実際くたばるのを待つまでもなく弱体化してチャンスが来た瞬間すぐさま裏切られて寝首をかかれた事例があるように。

三国志時代の人物・董卓(とうたく)。
自分の好き放題できていたが一番近くにいた家来だと思っていた人間に攻撃されて死亡。
死亡の知らせを受けて民衆は悲しむどころか喜んで街中で踊り騒いだと言う。
近くに人がいるからといって、それが
「自分のことを好いてくれて周りにいてくれているのか」
それとも「なにかインセンティブがきっかけとなってただ言うこと聞かせることができているだけなのか」というのは全然違うということの理解が必要だと思います。
特に自分と距離の近くなる関係の人間であればあるほど
「実はチャンスが来たらすかさず出し抜こうと思っている人」
なんているか?いらないでしょって個人的に思うんですよね。
仲間どころか、もはや敵やんそれ笑
仲間だとしてもクソ浅いし。
ということを考えたときに、なにかバトルで勝つっていうことに自分の人生の時間と力を使うっていうのはあんま意味がないように個人的には感じます。
だから「勝つか負けるか」みたいな捉え方をするマインドの人とはそもそも『縁を切る』でいいのではないかなと個人的には思います。
もちろんゲームで世界を征服しようとしてくる魔王がいたらそいつを倒すために主人公たちが立ち向かって戦うように、明らかに自分に対して悪意がある人間はウザいのでバトってもいいと思いますが
そうじゃなくてとにかく自分からバトルを吹っかけまくって、次々と勝っていけばいいってもんでもないなと感じますね。
勝ち負け志向の人間かどうかわかる場面
自分のようなタイプの性格の人は「人を支配してやりたい」「人を支配してキモチヨクなりたい」みたいな欲求がないのだから
当然行動の原則として高圧的な態度を取る必要もなくなります。
バトりたがる相手と遭遇したときは
「バトって相手を打ち負かそうとする」よりかは「トラブる前に縁を切る」動きになるので。
あと以下の最後のほうに書いてある通り「詰めない」をマイルールにしています。
「人生のやりたくないことリスト」の中にも「人に対して怒る」もバッチリ入っています。
で、相手が勝ち負け志向なのか、それとも自分と似た方向性の人間なのかわかる場面があって
「人が優しいときにどういう対応をしてくるか」でわかります。
優しいときに相手の態度に対してわきまえを持つ人間と、
そうじゃなくて「ラッキー♪」という感じでつけ込んでくる人間かどうかが大きな分かれ目です。
これに関しては別記事で以前書いたのでこれも読んでみてください。
「それでも人を従わせないといけない…!」という場面について
人間って自分一人の力だと限界があるから自分一人ではできないこともあります。
だから
①どうしてもやりたい大きな野望
②人を支配してやりたいというサイコ気質
この二つが合わさっているならば自分の野望を実現させるための手段として人を従わせまくるっていうのも一つの選択にはなってくると思います。
基本的には軍隊みたいな上下関係が構築されているほうが円滑に進むので目的も達成されやすいでしょう。
とはいえその場合でも「自分の周りにたくさん人がいるし、なんでも言うこと聞いてくれるから好かれている」という短絡的な思い違いをしてはいけないというのは心にとどめておく必要があると感じます。
個人的には1人じゃできないくらい大きすぎる野望も人を従わせてキモチヨクなりたいという気質も特にないから別にやらなくていいかなって思っています。
ちなみに一人ではできないくらい大きな野望を実現するときも、ものすごく理想的な状態であれば別に人を従わせるようなことをしなくても円滑に回る状態も存在すると考えます。
これは今度別記事で詳しく書こうと思います。
ただいろんな条件が揃う必要があって難易度はかなり高いように感じます。
難易度が高いからこそ、少人数ならかろうじて可能な場合はあったとしても関わる人が増えれば増えるほど不確定要素が増えて実質不可能になるのだろうと思います。だから、大きな組織になるほど軍隊のように人に命令し強制的に従わせる形で組織を動かすしか実質不可能になるのだろうと考察しています。

この本がそんな感じの内容だった気がする
人との共存志向を選べる今の世界は恵まれている
ということでいつも勝ち負けばかり考えるようなことするんじゃなくて共存志向で行きたいという話ですが、現実的な話として余裕のない時代には不可能な選択だと思います。
人類よりもっと前の動物の世界だと食うか食われるかだから普通に無理だし、
日常生活よりもっとピリついた国際社会でも支援金ばかり出すと別にそれを感謝されるわけでもなくむしろ「頼めばいくらでも出してくれるかも」とつけ込まれるときもある。だから最初から毅然とした態度をキープしておかないと恩を仇で返されるようなことが起こることもある。
法律や警察といった存在がない時代だったらのんきなこと言ってる場合じゃなくて隣の村が攻めてきたら滅びてしまうから、やっぱり勝つか負けるかという志向で生きていくしか選択肢がないでしょう。
しかし少なくとも今の時代は先人たちによる発展や様々なルールの整備のおかげで常時バトることばかり考えなくても平和に生きていける時代が構築されています。
これって実はすごく恵まれた時代に生きてるんじゃないかなって思うんですよね。そしてありがたく享受した方がいいんじゃないかなって感じています。
という内容でした。感想はDMで待ってます!一行とかでも!